車中泊で立寄りたいのが
日本海から京都に通じる街道の
熊川宿です。
日本海側を福井県越前から舞鶴に向かう
丹後街にの沿って走る丹後鉄道「上中駅」の手前から、
若狭街道別名鯖街道が分岐する。
当時の歴史や街道沿いの風情ある
街並みを歩くことができます。
ご紹介いたします。
「御食国」若狭
「御食国」(みけつくに)とは、
天皇の御食料を指す「御食」を納めた
国のことを言います。
若狭は、
塩や海産物等を納める「御食国」として、
古木から重要な役割を
果たしてきました。
しばらく走ると
熊川宿が右手に見えてくる。
駐車場があり、
そこに止めて若狭の方から
宿場町に入り街中を歩きます。
![](https://tabi-asobi.com/wp-content/uploads/2019/02/IMG_20181005_092343-1024x768.jpg)
その先にある最初の宿場町が熊川宿です。
江戸時代の最も栄えた時の
半分の戸数にまで減少しました。
現在その時の家屋や情景が
そのまま残されています。
鯖街道の由来
若狭街道は、
小浜から若狭町(旧上中町)の日笠を通り、
熊川を経て、
滋賀県高島市朽木(旧朽木村)を越え、
大原八瀬の三千院あたりから
京都へ入る道のことだとあります。
小浜から見て、
「京は遠ても十八里」と言われたほど
京都とは関係の深い土地だそうです。
この距離をプロットしてみました。
いろいろな説があるようですが、
あくまでも概要です。
小浜で水揚げされた魚(サバ)は
背負子に入れて京都まで一昼夜歩いて
運んだという記録が残されています。
その重さは40㎏~60㎏もあったそうです。
小浜で獲れたサバにひと塩し、
夜を徹して京都まで運ぶ間に塩が程よく
効いてきて着いたころには
最も良い味になったようです。
近くには道の駅「若狭熊川宿」があります。
ここには資料館があり、
鯖街道の様子や資料があり当時を
体感できるようです。
サバずしも売っていました。
サバは、塩漬けにして鮮度が落ちないように
京都まで運ぶのですが、
途中山中で盗賊に取られる事もあり、
苦労したようです。
熊川宿とは
![](https://tabi-asobi.com/wp-content/uploads/2019/02/IMG_20181005_112543-1024x768.jpg)
熊川宿は、
重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、
平成27年には熊川宿を含む若狭街道(鯖街道)が
「~御食国若狭と鯖街道~」
として日本遺産に認定されました。
熊川というところは
もともとは戸数40ほどの
小さな寒村であったのです。
江戸時代に近江の国境に接する宿場町として
大いに繁栄しました。
京都方面に向かって歩くと、
熊川宿の案内が経っています。
ここから熊川宿の町並みが始まります。
途中でカギ型に道が曲がっています。
![](https://tabi-asobi.com/wp-content/uploads/2019/02/IMG_20181005_113544-1024x768.jpg)
江戸初期から中期にかけて、
この熊川宿の戸数は200戸を越えていたのです。
交通の発展により若狭街道を使う事が少なくなり、
現在では半分の100戸ほどに
減っているそうです。
![](https://tabi-asobi.com/wp-content/uploads/2019/02/IMG_20181005_112940-1024x768.jpg)
道の両側には、
当時の建物が軒を連ねていました。
家の前に水路というか堰(小さな川)が流れています。
家から水路に降りて、
この水で野菜を洗ったりして活用していました。
実に生活に密着している水路で、
降りてみましたが丁度良い高さに足場があり
洗うのにも楽です。
生活用水なのですね。
日本海の小浜で採れたサバ。
当時は若狭湾でサバが豊漁で水揚げが多く、
京都では大衆魚として重宝されたようです。
現在鯖街道と呼ばれている街道の他に
多数サバを運ぶ道があったと
記録が残っているようです。
京都まで一昼夜をかけて寝ずに運んだ
実際に少し歩てみましたが、
京都まで一昼夜をかけて寝ずに運んだ当時の人々の
体力・健脚ぶりは真似が出来ません。
すぐに鮮度が落ちるサバを生のまま運ぶ技術は
日本人の知恵であり
素晴らしい工夫をすると思います。
まとめ
福井県若狭の熊川宿の紹介でした。
鯖街道は、日本人の工夫と技術の高さを知る旅でした。
■車中泊先は、京都舞鶴港です。
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tabito(旅人)